瀬上チュックボールクラブになり、他チームとの交流も増え、日本選手権以外の色々な大会にも積極的に参加するようになった。
【ジャパンカップ】2005年~現在
大学一年の時から始まった大会。俺が19の時だから13年前ぐらい。
会場は群馬で、日本選手権の会場とはまた別の場所で行われた。
旧国際基準のコートの広さと人数で行われた大会で、9人制大会って呼んでた。
(日本選手権は1チーム7人制で、当時の世界大会は9人制だった)
9対9なのでコートも広く、YOSHIWOとかY史とか最初スローイングがハーフラインにすら届かなかった記憶があるw
また、現在はすっかり主流になった台湾ネット&ボールが導入されたのもこの大会からだった。最初に台湾ネット使ったときは普通にシュート撃っても威力が1.2倍ぐらいに増幅されるから驚いたなぁ。反発良すぎてやたらシュートが浮いてたし。逆に守備につくのは怖かった。この頃はもう居なかったけど、もしウチのジャイモンが全盛期にこのネット使ってたら俺は絶対に守備につかないw
何回目かの大会には台湾から黄さんが来てくれて、日本のレベルの高さに驚いてもいた。なんで国際大会に出ないんだって言われたけど、日本チュックボール協会が実質あまり機能しておらず、参加するにしても交通費など一切が自腹だったため難しかったのよね。もう少し早く国際大会を経験出来てたら色々と変わったかもしれないのに、今でも残念に思う。
大会は基本二日間にわたって行われて、一日目は総当たりのリーグ戦をして、二日目は交流重視ってことでチームを全部統合して振り分けて、混合チームで試合したりしてた。普段と違ったチームでやるのも新鮮で楽しかった記憶がある。
【福島大会】2008年~震災前まで3回
福島主催の大会
第一回は東部体育館
第二回、第三回は西武体育館で行った
日本初の4人制(ハーフコート)の大会
うさぎ監督の力で実現した大会で、監督が県外に引っ越してしまってからは開催できてない。
群馬より遠いのに豊山さんも来てくれたりして嬉しかったなぁ。
そこで本町の元日本一のシューターから真ん中に落とすシュートを教わったりしたんだよねぇ。もっと色々なことを聞いておけばよかった。
【立川大会】2005年~震災前まで
立川堂さん主催の大会。会場は東京。
当時車なかった俺たちは青春18きっぷで鈍行で行ったのを覚えてる。
電車での移動もなんだかんだで楽しかったなぁw
何回目の時は忘れたけど、豊山さんに初めて勝てた大会だった。
その次の日本選手権ですぐにリベンジされたけどねw
大会後に立川堂さんと温泉行ったり、色々な思い出がある大会でした。
【豊山大会】昔から現在まで
愛知で行われていて、かなりの歴史がある。
「日本選手権よりレベルが高い」と言われていた大会。
日本選手権には仕事や日程の都合などで出場していない上手い選手も居る。
福島ー愛知間はやはり遠く、費用がかかったり強行軍になるので気軽に全員で参加とはいかなかったけど、日本最高峰のレベルの中で試合をすることは間違いなくプラスになるので、有志を募ってほぼ毎年一部のメンバーが参加してた。
俺も20代前半の時に一回だけ参加して、そこで最強シューターてっちゃん(当時はもう引退していた)から最強のシュートを教われたのが何よりの収穫だった。
多分このイベントが無かったらチュック続けてなかったかもしれないw
以上のような大会がありました。
多いときは年に5回も試合の機会があって楽しかった。
参加チーム数や規模も年々縮小しているので、なんとか踏みとどまりたいところ。
普及に力を入れていかないと、チュックボール界自体が無くなってしまう可能性もわりと現実味を帯びてきたので、今後は各団体協力して競技人口を増やしていきたいと切に願っております。